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公園内のモニュメント

C−46輸送機(天馬)

天馬
C−46はアメリカのカーチス・ライト社製で1940年3月の試作機から総数3,180機が製造され、当初は軍用の輸送機として使用されましたが、 戦後多くのC−46が民間旅客機として改装されました。

日本では、昭和30年1月航空自衛隊の輸送機として供与を受けたC−46Dを初装備し、 昭和34年12月にはC−46Aを輸入して総数47機を保有していました。

自衛隊では災害時などの緊急物資空輸、 空挺隊訓練、兵員輸送などに広く活躍しました。

 現在航空記念公園に展示してあるC−46Aは入間基地で使用されていたものを、 昭和55年12月に航空発祥の地所沢を後世に伝える表徴として航空自衛隊より貸与され設置したもので、 公園の目玉となっています。

C−46の緒元は、乗員・5名、 エンジン・空冷18気筒星型2,000hp×2基、翼幅・32,9m、 全長・23,3m、全高・6,6m、 また当機は、ECM(電子戦妨害対策)特別仕様機として改修されました。


フォール大佐胸像

フォール大佐胸像
 第一次世界大戦後の大正7年、 航空本部長であった井上幾太郎少将は航空の重要性を主張しその改革に着手しました。

その一つとしてヨーロッパ各国に比べて大きく後れをとっていた航空技術の指導を受けるため、 フランスより技術者を招くことになりました。

 来日したフランス航空団はフォール大佐を団長とする飛行士の一行と多数の専門家(その数は資料によりまちまちで46名〜63名)からなり、 大正8年1月から9年4月までの15ヶ月間、 陸軍の将校や技術者を対象に学科の教授と飛行訓練が行われ、 日本の航空技術の進歩発展だけでなく、 工業界の発達をも促すという多大な功績を残しました。

 フォール大佐は、当時44歳で砲兵部隊長として第一線に立って活躍していましたが、 フランス航空部隊の組織編成にあったって活躍し本国においては航空の第一人者であり、 かつ優れた操縦者であると共に教育者でもあったことから日本派遣団長として命を受け来日したもので、 帰国後その功績により少将に昇格しましたが、 大正13年8月24日メッツ砲兵旅団在職中49歳で他界されました。

 フォール大佐の功労を称えて昭和3年4月に胸像が建立されましたが、 昭和20年の終戦後取り外され所在不明になってしまい、 多くの関係者の努力によって、 残されていた原型を元に昭和57年復元されたものです。


木村・徳田両中尉記念塔

木村・徳田両中尉記念塔
大正2年3月28日、東京青山練兵場で行われた飛行演習に飛行船パルセパール、 会式2・3号機と共に参加した「プレリオ機」は、 午前11時36分木村鈴四郎砲兵中尉(当時28歳)が操縦し、 横に徳田金一歩兵中尉(当時29歳)が同乗して所沢へ帰還の途につきました。

午前11時59分大勢の人々が待つ所沢飛行場を目前にした時、 突然の強風に左の翼を破壊され、 木村中尉必死の操縦も及ばず高度300m上空からきりもみ状態で牛沼の山林に墜落、 両中尉は機と共に殉職し、我が国初の航空犠牲者となりました。

 当時の「やまと新聞」は義捐金を募り、 墜落地点に記念碑を建て両中尉の英姿を銅像として残しました。

その後この塔は、所沢駅前、西武園、航空自衛隊入間基地と転々と移設されましたが、 関係者の協力を得て、昭和55年3月に航空発祥の地である、 所沢航空記念公園内に移設されたものです。


少年飛行兵の像・大正天皇駐輦碑

少年飛行兵の像
 所沢航空機念公園内には陸軍の飛行場があった当時に建てられた像や碑が残されています。

 少年飛行兵の像は、 昭和18年所沢陸軍航空学校に学んでいた少年飛行兵達によって翼を囲んだ少年3人の像が造られ、 昭和19年5月21日健空神社参道(旧所沢飛行場内)に設置されたものです。

この3人の像は操縦・通信・整備の協力によって飛行機が飛行することを表しています。

 また、大正天皇駐輦碑(たいしょうてんのうちゅうれんひ)は大正元年11月17日に行われた陸軍特別大演習に大正天皇が来場され、 「会」式・プレリオ式飛行機の飛行を視察されました。

その時見学された場所に来場を記念して碑が建立されたもので、 碑には飛行機の参加を推進した井上幾太郎大将の筆による字で刻まれています。


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