山口城の城主は、武蔵七党の一派であった村山小七郎家継で、 山口に居城を構えたことから山口姓を名乗り、保元の乱に活躍し、 源平合戦では義経に従って奮戦しました。
更に頼朝上洛には随兵としてこれに加わり、 承久の乱には幕府方の精鋭として参陣し、 以来連綿として武蔵武士の一員として山口氏が戦記物語に登場しています。
隆盛を極めた山口氏も、 応安元年(1368)に南朝方の新田義貞の三男義宗が脇屋義治と共に兵を挙げたとき、 当時の城主山口高清は武蔵武士の河越氏・高坂氏と共にこれに加わり、 鎌倉公方足利氏満に敗れ、高清は河越で戦死したものであろうといわれています。
また一説には、足利軍に城を落とされ、 城から2Km程の所にある山口氏の菩提寺である瑞岩寺で自刃したともいわれ、 同寺に高清の墓塔が残っています。
資料提供:所沢市経済部商工課